私の共感覚について 〜色字の世界〜

私の共感覚について 〜色字の世界〜:My Synesthesia -A World of Grapheme-Color Synesthesia

色字という共感覚

私には共感覚がある。文字や数字に色が付いているように感じる「色字」だ。文字や数字を見た時に、例えば「あ」なら赤、「3」なら青という風に、色が浮かんでくる。と言っても、目で見ている文字や数字が、実際に色付くわけではない。(稀にそういう人もいるらしいが。)脳裏に色が浮かんでくると言った方が正確だと思う。

浮かんでくる色は、人それぞれ違う。インターネット上で他の共感覚者達の文字の色を見たが、自分のとは違う色が多々あった。ただ、特定の文字では共通する傾向があるかもしれない。例えば、私にとって「あ」や「A」は赤だが、多くの人がそう書いていた。また、私は漢字、ひらがな、カタカナ、アルファベット、数字すべてに色があるが、漢字には色がない人もいるらしい。言われてみれば私も、RGBで指定できるほどの字がある一方で、ぼんやりとしか色がない字もある。この「ぼんやり」の要素が強まれば、文字に色が付いていないという状態になるのかもしれない。

共感覚がない人もいると気付いた経緯

共感覚が誰にでもあるわけではないと初めて知ったのは、二十代になってからだ。私はずっと、三色のカラーストーンがついたオーダーメイドのブレスレットを着けていた。その三色は、自分の名前の漢字三文字の色だった。ある日、友人に「そのブレス、いつもしてるよね?」と聞かれたので、私は「うん、自分の名前の色だから。」と答えた。どの漢字がどの色に対応しているか詳しく説明したのだが、友人は「本気で意味が分からない。」と怪訝な顔をした。私は「まぁ、何となくだよ。」と濁したが、内心はかなり驚いていた。

それ以降ずっと誰ともその話をしなかったが、結婚してすぐの頃、また同じようなことがあった。結婚後の私の名前について夫と話していた時、「前より明るい色の苗字になって、フルネームで見た時に色の統一感があるから嬉しい。旧姓は最初の文字だけ浮いてた。」と話して再び怪訝な顔をされたのだ。これをきっかけにインターネットで検索し、この感覚に色字という名がついていると知った。

文字に実際に色を付けた時の混乱について

色字の共感覚がある人は、実際に文字に色を付けると混乱するというが、私はそれについて不便に感じたことはない。確かに、一文字ずつ別々の色がついた文章を延々と読むのは辛いだろうと思う。しかし、普通に生活していれば、そんな文字列はほとんど見ない。たとえ文字が自分の感覚とは違う色で書かれていたとしても、それが単語や文節ごとだったり、ある程度の色の塊になっていれば全く問題ない。例えば、画家が金色や紫色の林檎を描いたとしても、大抵の人は「この人は林檎をこういう色で表現したかったんだな。」と思うだけだろう。そういう感覚に似ていると思う。左利きの人が幼少期に右利きへと矯正して徐々に慣れていくように、きっと私の感覚も成長するにつれて違和感に順応していったのだと思う。 それよりも、自分以外の色字の共感覚者が「8は黄色です。」などと書いているのを読んだ時の方が一瞬の混乱が大きかった。私にとって8はターコイズブルーだ。黄色なんて違和感しかない。先ほどの絵の例でいうと、仮に画家が外国人で「私の国では林檎は金色です。」と話したら、一瞬「え、そうなの?!」と混乱しないだろうか。きっと、そういう感覚だと思う。

文字の組み合わせによる明度や質感の変化

私の場合、漢字に明度の変化が起こったり、質感が生まれたりすることがある。一文字だけだと単純な色でも、他の文字と組み合わさると質感が出るのだ。エナメルのようにツヤツヤしたり、粉をまぶした様にマットになったり、水のような透明感を得たりする。ゼリーのように艶と透明感が融合していることもある。例えば、「和」という字は透明に近い薄い水色だ。そして、「合」という字は白にコーラルレッドを少し足した色。それを「和合」という単語にすると、途端にマットな質感になる。元々あった「和」の透明感は「合」の白味で打ち消され、「和合」は「マットでパステルブルーっぽい単語」になる。

質感や明度が変化しても、文字の色自体は混じらない。赤の文字と緑の文字を組み合わせても、「クリスマスっぽい単語」にはなれど、「黒い単語」には絶対ならない。しかし、ごくごく稀だが、特定の組み合わせになると別の色のイメージが入り込んでくることがある。例えば、「月」は単体だと黄色だが、「月曜日」と聞くと赤色が浮かぶ。「火」だけだと橙寄りの赤だが、「火曜日」と聞くと水色を連想する。これは、小学生の頃、教室の黒板の横のボードに貼られていた時間割表で、月曜日が赤色、火曜日が水色で塗られていた印象が残っているのだと思う。とはいえ、「月曜日」の個別の文字色は黄・黒・白であり、この単語の中の「月」という文字が完全に赤く変化する訳ではない。

色そのものは変化しないが、組み合わせによってその文字の存在感が変わることはある。(単純にどちらの色が目立つかというだけの話だが。)例えば、「昭和」と「令和」は同じ「和」という漢字が使われているが、昭和の場合は「昭」の少し赤を加えた濃い苔色の存在感が強過ぎて、「和」が目立たない。山水画の中で、鬱蒼と茂る森林の間にほんのちょろっと添え描かれている小川のようなイメージだ。「令和」に関しては、「令」がシルキーなパステルイエローのため、昭和より明度・彩度ともにバランスが取れている。より明るく、柔らかく、爽やか。これからの時代が楽しみになるような、とても素敵な色の元号だと思う。

色のパターン

それぞれの文字色がどうやって決まっているのか、自分でも分からない。ある程度、大まかなパターンはあるのだが、必ず例外もある。 一つ目は、字が持つ意味から連想しているパターンだ。例えば、「赤・紅・朱」は赤系で、「青・水」は青系、「緑・草・森」は緑系だし、「桃・桜」はピンク系だ。例外として、「黄」は黒が入っていて典型的な黄色ではないし、「藤」に至っては薄紫ではなく真っ黒だ。また、「緋」は藍色なので、昔は緋色が青系統の色だと思っていた。 二つ目は、口に出して読んだ時の音で連想していると考えられるパターン。例えば、「誕・単・担・短・箪・丹・段・談・断(たん/だん)」は全てオレンジ系だ。「感・間・環・艦・鑑・官(かん)」はどれも濃紺の要素があるけどほとんど黒にしか見えない色(どの漢字も完璧に同じ色ではない)。しかし、「たん」と読める漢字すべてがオレンジではない。「かん」についてもそうだ。 パターンがあるような、ないような。この国の人間はこうだとか、この職業の人間はこんな奴だ、なんて言っていても、常に例外がいるのと似ている。

共感覚のメリットとデメリット

共感覚のメリットは、何かを記憶する際の補助になることだと言われている。あり得る話だが、私としては共感覚がなくなった状態になったことがないし、比べようがない。断言はしかねる。 デメリットだと感じたことはない。色の組み合わせが嫌だったからと数学テストで回答をわざと変えた例が紹介されれば、弊害があるように思うかもしれないが、共感覚のせいにするのは違うと思う。問題なのは、出された問に答えるというテストのルールを理解できていないこと、もしくはそれを無視して我を通す性格である。私は子供の頃、どんなに回答が醜い色合わせだろうと、一度もそんなことはしなかった。他人が提示する色を尊重して受け入れられる子であれば、幼くてもそういう問題は起こらないと思う。

おわりに

共感覚に記憶の補助というメリットがあったとしても、テストを受ける機会もなくなった今の私には何の得もない。自分自身ですら、自分が文字を何色に見てようとどうでもいいし、長々と書き綴っているのが馬鹿らしくなるくらいだ。 私は、共感覚について一例を知りたい人のために、そして、周囲に変だと言われて傷ついている共感覚者の若い人達に対して、この話を書いた。 皆どこかしら変であり、それが普通だ。そこら中に全く同じ人間がゴロゴロいるわけじゃないのだから、当然のことだ。他人を変だと悪く言う人は、自分の中の多数派に属する部分しか見ていない。自分の変な所に気付いていないか、目をつぶっているだけだ。変であり普通でもある自分を恥じずにいて欲しい。今後、あなたの個性を良い意味で面白いと認め、尊敬し、一緒に楽しんでくれる素敵な人と、たくさん出会えますように。